肩書きや学歴にこだわる人のための禅語【無位の真人】

禅のちょっといい噺

1 肩書きや学歴にこだわる人

世の中に、肩書きや学歴にこだわっている人たちはたくさんいます。人によっては、他人の肩書きにまでマウントして自分の劣等感を穴埋めする人たちもいるくらいです。

私が知っている○○大学出身の△△さんはね... 
○○会社の専務に昨晩さそわれちゃってさー...
○○部長が賛成してくれたから...

ビジネスで大成功したIさんも、肩書や学歴にとてもコンプレックスを抱えていた一人です。しかしIさんは「無位の真人」という禅語を知って、人生が大きく変わりました。

2 学歴も肩書きもなく、人生はどん底

Iさんは、大学入学後2か月で、突然両親を交通事故で亡くしました。Iさんには私立高校に入学したばかりの妹もいました。
悲しむ暇もなく生活費や弟の学費を稼ぐために、大学をすぐに中退し、仕事を3つ掛け持ちながら働き詰めの毎日を送りました。土日休日を返上し、毎日3年間がむしゃらに働きました。

妹は無事に高校卒業し就職できましたが、Iさんは働く目標を失い、大学生だった自分は今や中退者、一流企業への就職もできないことを悔やみはじめます。その後、Iさんは強い劣等感に見舞われ、うつ状態になってしまいました。

Iさんが唯一心を癒すことができたのが、読書です。或る日、ふっと手に取った本が禅語録の王様と言われる『臨済録』でした。

禅語「無位の真人」

『臨済録』を読み始めて、すぐにIさんの目に飛び込んできたのが「無位の真人」という言葉です。Iさんは、「無位の真人」(肩書を全て取っ払った時に残る本当の自分とは何か?)とは、正に今の自分に問われていることだと感じました。

Iさんは、「無位の真人」を、自分なりにこのように解釈しました。

大学卒とか一流企業といったステータス(位)を全て取り払った時に顕わとなる真の自分とは何か。

ステータスに執着している自分は、本当の自分ではないのはないか。

全てのステータスを取り除いた時に、唯一残る自分とは何者か。

きっと、そこには劣等感も存在しないはず。失うものは何も無い、何も始まっていない、何にも束縛もされていない。

リスクゼロで何でも自分の好きなことを始められる。何も無いから何でも出来る。
Iさんは、「無位の真人」を知って「無一物無尽蔵」(何もないところにこそ色々なものを生み出す可能性が有る)ということが分ったのでしょう。

Iさんは、考えました。大学に再入学しても卒業が26歳、であれば起業しようと決断しました。中学から得意だったコンピュータプログラミングのスキルを活かして、IT会社を立ち上げました。忙しくなるにつれ色々と悩む時間もなくなり、毎日目の前のことをこなすことで精いっぱいとなり、うつ状態も自然と解消しました。

Iさんの丁寧で確実な仕事ぶりが評判を呼び、顧客数もどんどん増え、9年後には従業員数200名以上の会社までに成長しました。Iさんの会社は大手VCの目に留まり、Iさんは自分の会社を大手企業にバイアウトしました。

Iさんはバイアウトした企業の取締役に迎えられ、また自らがベンチャー企業に出資する会社も新たに設立して海外でも成功を収めました。自ら常に「無一物無尽蔵」の世界に戻ることを心がけ、5年に一度のサイクルで新しい分野に事業を拡大中です。

Iさんが出資する判断する時は、社長や社員の出身大学や元働いていた企業などの調査は一切しないそうです。今までどれだけ失敗して、その後どれだけ取り返したか、「無一物無尽蔵」の可能性がどれだけあるかを重要視しているとのこと、これこそが禅の実践ですね。