承認欲求を捨てるための禅語【無功徳】

禅のちょっといい噺

禅語

無功徳

よみ

むくどく

意味

見返りを求めない、ということ。

ひとりごと

相手のことが嫌になってきたら、相手に何かを求めすぎているサイン。

親しくなればなるほど、見返りを求めてしまうのが人間関係。
「これだけ心配してあげたのに」
「これだけ助けてあげたのに」

期待して裏切られるから、相手のことが嫌になる。
「期待」とは承認欲求のこと。

すべては期待(承認欲求)が原因。欲求が満たされないと、人間はイライラするから、見返りを求めるのを止めると、心が楽になる!

無功徳の言葉に隠された禅ストーリー

「無功徳」という言葉は、達磨大師の言葉です。
「無功徳」という言葉には、こんな禅のストーリーがあります。

    梁に武帝という皇帝がいました。
    武帝は、多くの寺院を建立し、多くの経文を複製し、自ら『涅槃経(ねはんぎょう)』を講義するほど仏教に帰依していました。そのため、武帝はこれだけ仏教のために尽力しているのだから、何かよい功徳があるだろうと考えていました。

    或る日、武帝は達磨大師に問いかけました。
    「私はこれまでに多くの仏塔を建立したり、仏教のために沢山のことをしてきた。この善行に対して、どのような功徳があるだろうか?」

    武帝はさぞかし多くの功徳が得られると考えていたに違いありません。
    しかし達磨の答えは、武帝の意に反するものでした。

    「無功徳」(何の功徳もない)

    武帝は、達磨大師に問いました。
    「何の功徳もないとは、どういうことだ? なぜだ?」

    達磨大師は答えました。
    「功徳とは、損得にかかわることのない浄らかなものです」

    こんな禅問答が、「無功徳」という禅語に隠れているエピソードです。