禅批判ー社会が求める禅のかたち

禅の研究

1 禅はわかりずらい

禅を批判する人のなかには、「絶対無」「絶対自由」といった一般の人々がわかりづらい言葉による説明や禅にみられる逆説的な言い回しに、抵抗を感じる人も少なくありません。

例えば、禅研究者の第一人者とされる鈴木大拙や禅に大きな影響を受けて日本独自の哲学を構築した西田幾多郎は、禅とは何かということを説明するにあたり、テーブルをガタガタと動かしました。(西谷啓治「わが師西田幾多郎先生を語る」参照)普通の人であればテーブルをガタガタと動かすことが禅であるとは到底理解できません。

また鈴木大拙の以下のような禅の説明も同様です。一般の人がこのような解説を理解するためには、それなりの専門的な禅の体験と知識が必要です。

    禅はまったく論理や分析の上に築かれた哲学ではないのである。いずれかと言えば、禅は論理の正反対である。すなわち論理は思考の二元的様式を具えたものある。が、禅は心の全部であるから、禅のうちでには知的要素があるとも言えるが、心は多数の機能に分割されたり、または解析の終わった後に何物も余さぬような合成物ではないのである。禅は知的分析の方法に依っては何ら吾々に教えるところなく、またその教徒に課するに何か規定せられた教理なるものをも持っていない。この意味では禅は無秩序であるとも言える。禅教徒は一、二の教理を持っていることもあろうが、それらは皆自分の便宜のためであって、禅そのものから出たものではない。ゆえに禅には聖典とか、独断的教義とかいうものはなく、あるいはまた禅の意義が徹底せしめられるような象徴的な様式などもないのである。しからば、禅は何を教えるかと問うものがあれば、私は答える。禅は何物をも教えないと。(鈴木大拙『禅学入門』、講談社学術文庫、二〇〇四年、二二―三頁。)

2 わかりやすい説明が求められている禅

以上に紹介したような禅についての説明は、一般人に禅が神秘主義的であるかのような印象を与えてしまうだけではなく、禅が何か抽象的で特定の人間だけの特別な宗教であるということを強調する印象を与えかねません。

鈴木大拙や西田幾多郎が生きた西洋に追いつけ追い越せの時代に受け入れられた「禅こそ東洋精神の代表」であるかのような一方的な禅への賛美的・神秘的・抽象的解釈は、今の国際的社会の時代には通用しません。現代ではもっと誰にでもわかりやすく禅とは何かという説明が求められています。

禅への批判があるとすれば、それは「絶対無」や「絶対自由」という抽象的用語を禅における最高の境地を表現するうえで最も安易で都合のよい言葉として使う禅者の高慢な精神への安住を批判したものと理解できます。

このような批判には、多くの禅者は(特に高僧になればなるほど)沈黙でもって禅の真髄を証明しようとする傾向にあります。確かに「雄弁は銀なり、沈黙は金なり」という諺もあるように、沈黙することで敢えて問題を浮き彫りにし、当事者の内面に向かって訴えるかけることも時と場合によっては有効的手段になりますが、具体的問題に対しては、沈黙や「絶対無」の境地に到達するような純粋禅の境地こそが解決策だといったアプローチではなく、「禅では○○を××としてとらえて△△のように解決する」と明確かつ具体的に言語化して応えることこそ、禅の社会的存在意義ではないでしょうか。

3 禅批判との対話

禅が特定な人のためだけの体験主義にならないためにも、禅者たちは言語を否定せず社会問題や禅批判と向き合って対話していくべきです。

もちろん、禅を追究する修行者たちにとって禅の言語化は全く意味のないことであると重々承知していますが、個人の禅体験を言語化しない限りは、修行精進の結果は社会に還元されることがないばかりか、「衆生無辺誓願度」という菩薩行為の実践を実現することができないままに終わってしまいます。

実際に歴代の禅匠達は禅体験に基づいてその体験を言語化する重要性を正確に認識していたからこそ、「不立文字」を主張するにもかかわらず他宗以上に多くの語録が残っているのだと思います。

ただ、ここで一つ強調しておきたいことは、言葉やイメージから単純に禅を理解すればそれでよいかといえば、そこにも十分な注意が必要でしょう。

例えば、「わび・さび」といった「美的関心」や「健康的関心」からの「精進料理」「坐禅」といった禅へのアプローチとイメージのみが先行してしまうと、そうしたことがあくまでも禅の第一義のようにとらえられてしまいます。

4 禅の第一義

しかしこれらはあくまで二次的なものであって、禅を功利主義的に理解することは正確な禅の理解ではありません。また、禅に惹かれる多くの一般大衆たちは坐禅すると神秘的な力を得られると思い込んだり、禅式の精神的鍛練によって「肚が坐った覚悟」が身につくと考えてしまう場合が多いですが、そうした禅のイメージも禅が本来持つ本質とは違います。
よって、禅に対する理解が功利主義的にならないように、禅の表現方法も十分な注意が必要です。

とは言え、インターネットが普及した結果、全世界から禅に対してのアプローチが色々な角度からなされるようになったこの時代に、禅者はどこまでも「無」の一点張りで平静を装うことはできなくなるでしょう。
もはや「不立文字」といったことに胡坐をかき続けることが出来る時代ではありません。禅者は「禅とは何か」ということを明確に言語化することが世界から求められているのです。

5 啐啄同時の実践

禅語に「啐啄同時」(そったくどうじ)という言葉があります。これは、師匠が弟子を導いて悟りに到達させようとするときの師匠と弟子との関係を比喩するときに使われる禅語です。

「啐」とは雛鳥が卵の殻を内側から嘴でつつくことであり、「啄」は雛鳥が生まれてこようとするときに親鳥が外から殻を突いて助け出すという意味です。

もし親鳥が「啄」のタイミングを間違えれば卵中の雛鳥を傷つけてしまいます。またどちらかが早くても遅くても殻は破れません。雛鳥が内側から突く「啐」と親鳥が外側から突く「啄」の両方の行動が一致することで、雛がブジに生まれてくることができることを示す言葉が「啐啄同時」です。

この「啐」「啄」との関係は禅と社会に置き換えても同じことが言えます。
坐禅で見性体験をしないと禅はわからないのであれば、そのわからない内容とはいったい何かということを理論的に説明していくことが、一般社会における禅の実践性と役割を再認識するうえで重要になります。

「絶対無」で全てが解決される禅の世界からの返答は、その「絶対無」を言葉で以て在家に理解させるだけの禅の言語化が必要です。禅の言語化が不可能であるならば、その不可能であることを言葉でどれだけ大衆にわかりやすく表現していくかということ表明することが、禅からの「啐」の行動と言えるでしょう。

また禅への批判や社会からの禅への期待を「啄」と考えると、それは大衆社会から禅の世界への歩み寄りと考えることができます。こうして禅と社会が双方同時に接近していけば、禅と社会はどこかで接点を持つことができるはずです。

禅と社会との両方からの同時の歩み寄りが実践されることで、己事究明によって自己内で完結した悟りの内容が社会性を帯びるようになり、禅が最も重んじる日常生活における実践性が発揮されます。

釈尊から脈々と約二五〇〇年に渡り以心伝心して今日に至る禅は、もちろん釈尊の悟りの体験を追従することを第一義お宗旨として脱俗性つまり出家を重んじる部分もありますが、禅も大乗仏教の一つである以上一般社会という俗性に染まりながらその意義を発揮するという使命を果たしていくことも重要な使命の一つです。