禅問答(公案)入門 2「国師、三喚」

禅問答

1 本則
今回の禅問答は、『無門関』第十七則にある「国師三喚」(こくし、みたびよぶ)を紹介します。
「国師三喚」はとても短い問答ですが、短ければ短いほど難しのが禅問答です。
皆さんなら、どのように応えるでしょうか。

    或る日、慧忠国師(生年不詳‐七七五)は、侍者を喚びました。侍者は「はい」と返事をしましたが、特に動こうとはしません。
    国師は再度侍者を喚びました。侍者は二度目も「はい」と返事しただけで、腰を上げようとはしません。
    そこで国師は再び侍者を喚びましたが、侍者はやはり三度目も空返事をしただけで、慧忠国師のところには行きませんでした。

    【原文】
    國師、三たび侍者を喚ぶ。侍者、三たび應ず。
    國師云わく、將(まさ)に謂(おも)えり、吾れ汝に辜負(こふ)すと。元来、却って是れ汝、吾れに辜負す。

    語句の解説
    <國師>
    慧忠國師のこと。国師という称号は、帝が与える最高の位。

    <侍者>
    国師の付き人、世話役のお弟子さんのこと。

    <辜負>
    背くという意味。

喚んでも来なければ普通なら怒るところですが、さすがは皇帝から国師号を授かった名僧だけあって、慧忠国師の反応は一味違います。
慧忠国師は侍者を叱るのではなく、「わしはお前さんを悟りに導いてやれなくて申し訳ないと思っておったが、そんなことはない。お前さんの方が一枚上手だったのう」と侍者を褒めたのです。

どうでもよいことで喚んだのだのだから本来なら無視してもよいところを、敢えて相手をしてくれた、という意味なのでしょうか。そうであればこの侍者も隅には置けません。しかし皆さんは上司から喚ばれた時、決してこの侍者の真似をしないようにご注意を。

『無門関』による解釈

『無門関』は無門慧開(1183~1260)が、禅の修行者が悟る指標となるために評唱・頌を付けて書いた公案集です。

無門は、「国師三喚」について、このように評しています。

    国師はしゃべりすぎだ。
    一方、弟子は師匠である国師の立場をたてつつ、禅の真相を得た当然の応答ができているのは見事である。
    国師も老いてしまったのか、何とかして弟子を悟らせようと必死である。
    そんな師匠の気持ちを弟子は汲んであげることはできなかったようだ。せっかくのご馳走も、満腹の人にはご馳走にならないのと同じである。
    一端国師が三度呼んだことは置いといて、弟子が適当に返事をしたことを考えてみようではないか。
    国が栄えてくると、才能ある人が尊ばれ、家が豊かになってくると才能がある子でも満足しなくなる。

    【拈提】
    無門云わく、國師三喚、舌頭地に堕つ。
    侍者三應(さんのう)、光りに和して吐出す。
    國師年老い、心(こころ)孤(こ)にして牛頭(ごず)を按じて草を喫せしむ。
    侍者未だ肯(あえ)て承當(じようとう)せず。美食も、飽人の飡(さん)に中(あた)らず。
    且(しば)らく道(い)え、那裏か是れ他の辜負する處ぞ。
    國淨(きよ)うして才子貴く、家富んで小児驕(おご)る。

なかなか難しい解説ですね。
ただ禅の世界では、言葉をそのまま普通の意味で受け取っていては禅のトラップに引っかかってしまいます。
むしろ、NOやYESでYESがNOという世界が禅です。

なので、無紋は、きっと三度も弟子を読んだ国師の教育の方法も褒めていて、またその国師が示す背後の意味をとらえてしっかりと禅の真髄を理解して対応できている弟子も褒めているのかもしれませんね。

特にさいごの一文の「國淨(きよ)うして才子貴く、家富んで小児驕(おご)る。」は、悟った後は、悟りたいとか悟ったいったことすらも何も思わない境地を伝えていると同時に、更に悟った先を見性すべしといった戒めが見え隠れしているところは、さすがですね。

3 さらなるダメ出し

無門は、さらにこう言っています。

    頌(じゅ)に曰わく、
    鐵枷無孔、人の擔わんことを要す。
    累、児孫に及んで、等閑ならず。
    門を撑え幷びに、戸を拄うることを得んと欲せば、更に須らく赤脚にして、刀山に上るべし。

    【訳】
    穴のない鐵枷(てつかせ)を首にはめようとしても、そんなことはできない。(無理難題の譬喩として述べている)
    憂えは今後何世代に渡るので、適当なことはできない。(師匠から弟子へと悟りを継承する仏法嫡嫡相承を軽視せずにしっかりと悟りを代々つなげることが肝心であるという意味)
    門や戸を支えていきたいのであれば(宗門を絶えさせたくなければ)、裸足で刀でできた山を登らなければならない(死ぬ気で厳しい修行を積まなければならない)。

とても厳しい言葉です。
国師と弟子の三度の呼びと応答のやりとりから、仏法嫡嫡相承の重要性に話を広げています。
従者の弟子の応答を、逆説的にしっかりと褒めていますが、そこで終わってしまっては、悟りも悟りではなくなる、悟りとは悟り臭さがなくなってはじめて悟りであると警鐘を鳴らし、「百尺竿頭更に一歩を進む」ように促しているところはさすが無門です。

「百尺竿頭更に一歩を進む」、これも禅語です。
すでに到達した極点より、さらに向上の歩を進むことを促すいみのことばです。
百尺もある竿のてっぺんにたどり着いても更に先に行くよう修行を続けよ、ということはどういうことでしょうか。
これ以上、道もなく進むことができないなか更に一歩進めると、頂上から落ちてゼロの地点まで戻ってしまいます。
つまり悟ったならばその悟りを一旦ゼロにして、また再びゼロから始めよ、という意味ですね。

文頭おで、「短い問答ですが、短ければ短いほど難しのが禅問答」と言いましたが、「国師が三度弟子を呼び、弟子は三度とも適当に返事した」と、たった一行の問答が、ここまで深いのもまた禅宗らしいところです。

4 優しい禅宗

禅宗の修行はとても厳しく、私も(口外できないような)有り難い?体験を何度もしました。テレビで時々、厳しい禅宗の修行が特集されるのが原因なのか、一般世間も禅宗は厳しいというイメージがあります。
しかし、そんな厳しさは、禅宗の逆説的な構造からみれば、優しさの表現に他なりません。

「不立文字」を掲げ、言葉では説明できないものが悟りと主張する禅宗ですが、これだけ丁寧に悟りのことを文字を使って説明し尽してくれているのもまた禅宗ならではです。言葉でこれだけ説明して解説してくれているところは、禅宗もまた仏教の落とし子であり、慈悲の心の表れ以外の何物でもありません。

本当の優しさとは、もしかすると厳しさが無いと成立しないかもしれませんね。
それは、あたかも上司にぺこぺこしているイエスマンの言う「イエス」は、全く説得力やありがたみがないのと同じです。また周りもそんな「イエス」にはうんざりすることでしょう。
一方、とても厳しく「ノー」と言う人が、時々言ってくれる「イエス」は、とても有り難く、また嬉しいものです。
子育てにも同じことが言えますね。いつも子どもを甘やかす親が言う「ダメ」という言葉には、説得力がなく子どもも言うことは聞きません。しかし厳しい躾を常日頃実践している親の言う「いいよ」という言葉は、子どもは安心感を頂き、親に対しても尊敬の念を抱きます。

禅問答をこうした日常生活にまで落とし込んで、毎日の生活に活かすことこそが、禅語「百尺竿頭更に一歩を進む」の実践でもあります。皆さんは、この禅問答からどのようなことを学び、どのように日常生活に活かしますか?
自分の部下や子どもが、何度も呼んでも適当に返事をしている時、みなさんならどのように感じるでしょうか?
さあ、作麼生(そもさん)! 説破(せっぱ)!
禅ワールドにようこそ!!!