禅宗の経典 2

禅の研究

1 禅宗による『金剛経』の理解

『金剛経』で述べられている、「此の経故(もと)より能く無量劫来(むりょうごうらい)の罪業を消して、重を転じて軽と成し、軽を転じて受けざらしめ、復た仏果(ぶっか)菩提を得せしむ」(『碧巌録』(下)入矢義高・溝口雄三・末木文美士・伊藤文生訳注、岩波文庫、ニ〇〇一年、二三一頁。)という経典の持つ功徳、そして「教家に拠らば、此の二十餘張の経を転ずるを便ち喚(よ)んで持経(じきょう)と作す」(同書、同頁。)という受持読誦の意味するところは、文字で書かれている経典の内容や経典そのものを有り難いものであると理解することができるが、禅宗が標榜する「知行合一」に加えて「無功徳」、「不立文字」、「教外別伝」といった点でも禅宗の経典理解と大きく異なる。

それ故に『碧巌録』「金剛経軽賤」では、経典がもたらすとされる功徳を肯定しない立場を示しているとも解釈できる「もし経典自らに霊験があるならば、試しに『金剛経』を机上に置いてみたらどうか」という一文を記すことによって、そこから禅宗が持つ独特の経典の意義と価値を示そうとしたと考えられる。

『金剛経』の本文中にある、経典を受持読誦すると無劫来の罪業が減じられたり消えたりすると説くところで禅宗的に理解できる箇所があるとするならば、それは「能浄業障分第十六」に述べられている「理に約して言わば、先世とは即ち是れ前の妄心なり、今世は即ち是れ後の覚心なり。後念の覚心を以て、前念の妄心を軽賤し、費りに住するを得ざるが故に云く、先世の罪業、即ち為に消滅すと。妄念既に滅すれば、罪業成ぜずして、即ち菩提を得るなり」という一文であろう。

2 禅宗による『金剛経』の解釈

臨済宗大本山妙心寺の管長及びその宗門大学である花園大学の学長を長らく務めた、山田無文老師は以下の通り解説する。

    この『金剛経』の一文を禅宗的に解釈するならば、六祖大師が言われるように、先世とは、まだ生まれない前の世のことではないのだ。今、妄念が起こっておる。そこが先世である。今世とは、後念の般若の智慧だ。『金剛経』を拝読するまでは、妄念の中で日暮らしをしておる。それが先世である。『金剛経』を拝読して悟りが開けて、そこに本心が自覚されるならば、それが今世である。悟りを開くまでの妄念を、前世の罪業と軽賤する。悟りを開かん時には、とんだ妄想を起こしたものだ、とんだ煩悩を起こしたものだと、自らこの前念を軽んじ卑しめて、そういう念を心の中に残さず、何にもないという正念を相統していくならば、過去の罪業は消滅するのである。(山田無文『無文全集』第七巻 金剛経、禅文化研究所、平成一六年、四二五~六頁。)

    過去の妄念がことごとく滅ずるならば、罪業もそこには成り立たないから、菩提を得るのである。悟りを得ることができるのである。前世の罪業とは、生まれん前の無量劫の過去のことを言うのではなくして、悟りを開くまでの自分の妄念煩悩のことを言うのである。その妄念煩悩を自ら軽蔑して、二度と起こさないようにしていくならば、罪業消滅して菩提を得るのである。(同書、四二六頁。)

悟ることで過去の妄念を放下し菩提になることができれば、妄想を起こすこともなくなり、ひいては過去の罪業すらも存在しないと理解できるこの『金剛経』の一節は、悟りの境地に達すれば、実態(業障)が何もない「無」が自覚され、そこに新たな可能性が広がる「有」(菩提)が生まれるという禅宗の教えと重なる。

それ故に、単に経典そのものを重んじることはせず、また特定の一つの経典に依拠しない禅宗であっても、『碧巌録』で『金剛経』の「若し人軽賤せられなば、是の人は先世の罪業の、応に悪道に堕すべきを、今世の人の軽賤するを以ての故に、先世の罪業は、則ち為に消滅す」という一節を特別に取り上げて論じる意味があると考えられる。

また『金剛経』には『金剛経』を受持することによる功徳が説かれていると同時に、「如来は常に説けり、『汝ら比丘よ、わが説法を筏の喩えの如しと知る者は、法すらなおまさに捨つべし。いかに況んや非法をや』」(『般若心経・金剛般若経』中村元 紀野一義訳注、岩波文庫ワイド版、一九九一年、五四頁。)、「実には、法として、仏の阿耨多羅三藐三菩提を得る(というごときもの)有ること無し(…中略…)一切の法は、すなわち、一切の法に非ず」(同書、九六~八頁。)といったように逆説的な表現を使って、どのような聖なるものであっても、それに対する執着を否定する文言がある。これも現実に活かされる智慧の重要性を説くだけでなく、その智慧でさえも必要でなくなれば放下するように戒める禅宗と共通する教えである。

3 『金剛経』の特徴

『金剛経』は『金剛般若波羅蜜多経』の略称であることからも、般若の智慧、つまり「空」の思想を説いていることがわかる。『金剛経』の「金剛」とは、この世に存在する物のなかで最も固く、常に輝きを放ち続ける金剛石(ダイヤモンド)を指しており、心の奥深くに根付いた煩悩と迷いそして業や障礙を打ち砕く般若の智慧を喩えている。

 『金剛経』はこうした般若の智慧の働きとそれによって実現可能となる「空」の思想を説いているにも関わらず、本経のなかでは一度も「空」という語は使われていない。
中村元によるとその理由は、「空」という言葉が『金剛経』が成立した時にはまだ確立していなかったからではないかとされている。(『般若心経・金剛般若経』中村元 紀野一義訳注、岩波文庫ワイド版、一九九一年、一九七~一九八頁参照。)
『金剛経』は「空」という言葉を使わない代わりに、「般若波羅蜜は、般若波羅蜜に非ず」とか「仏土を荘厳すというは、すなわち荘厳に非ず」といった逆説や否定の表現を使うことによって「空」の思想を表している。

このような「AはAでない故にAである」といったパラドックスな表現を、鈴木大拙は「即非の論理」と名付けて「般若の智慧に至る道」(鈴木大拙『金剛経の禅・禅への道』、春秋社、昭和三十五年、二三頁参照。)と述べ、宇井伯寿は「空による高揚」(宇井伯寿『大乗経典の研究』、岩波書店、一九六三年、一〇五頁参照。)、木村泰賢は「真空から妙有」(木村泰賢『大乗仏教思想論』、大法輪閣、昭和四十二年、二三八~二四四頁。)と解説した。
この逆説的表現によって「空」の思想と般若の智慧を説いているところに、他の経典には無い『金剛経』の特徴がある。逆説的表現を用いた「空」の思想は、決して「何も無い」といった空間や虚無的心のあり方ではなく、何も無いところから生まれる「有」、つまり「空即是色」が即ち「色即是空」の世界観を述べている。

また般若の智慧による「空」の世界観を重要視している『金剛経』は、「大乗」と「小乗」という両概念の対立を避けた経典でもある。
多くの大乗経典は、その成立過程において初期仏教を「小乗」、つまり「小さな劣った教え」と批判することで、大乗仏教が初期仏教に比べて優位であるということを強調し、大乗仏教の必要性を訴えざるを得なかった歴史的背景がある。

これは大乗仏教が成立するうえではやむを得なかったとしても、その反面、大・小の分別や「小乗」という言葉に込められた意味を考えれば、仏陀が説いた教えに反することになる。仏陀は、分別することによってその一方が否定されるところに苦しみが生じると考え、どちらかに偏ることのない無分別の「中道の精神」を説いた。
この境地に至ることこそが迷いや葛藤そして苦しみからの解脱となるとした仏陀の教えは、「大乗」「小乗」という分別行為にも対しても同様なことが言える。しかしこの「大乗・小乗」の葛藤を抱えたいくつかの経典とは違い、『金剛経』は、「大乗対小乗」といった対立を避け、それによって分別心や執着心を否定する仏陀の教えが経典の中で忠実に守られている。

例えば『金剛経』では「小乗仏教」と非難するのではなく、「この法門は不可思議で、比べるものがない。スブーティよ、如来はこの法門を、この上ない道に向かう人々のために、もっとも勝れた道に向かう人々のために説かれた」(『般若心経・金剛般若経』中村元・紀野一義訳注、岩波文庫ワイド版、一九九一年、八七頁。)、「もしも求道者が、《生存するもの》という思いをおこすとすれば、かれはもはや求道者とは言われないからだ。個体という思いや、乃至個人という思い般などをおこしたりするものは、求道者とは言われないからだ。それはなぜかという、スブーティよ、〈求道者の道に向かった人〉というようなものはなにも存在しないからだ」(同書、九三頁。)という表現を用いて、「小乗」対「大乗」の比較やその優劣性に関する言及を避けている。

初期仏教では修行徳目や悟りへの過程が細かく決められていくなかで、戒律や教義に従うことにとらわれ自分の修行と悟りのみに執着し、人を救う本来の仏陀の教えが疎かになりつつあった。そうした大乗仏教が生まれてきた歴史的背景を考えると、『金剛経』が「菩薩は法においてまさに住する所無くして布施を行ずべし」(同書、四六頁。)「求道者はものにとらわれて施しをしてはならない。なにかにとらわれて施しをしてはならない。声や、香りや、昧や、触れられるものや、心の対象にとらわれて施しをしてはならない」(同書、四七、四九頁。)と布施行を説くのは、「小乗」という言葉を使って初期仏教を批判することなしに、大乗仏教の修行徳目が自分の悟りと同時に他者のためになること、そしてどちらにも偏らない中道であることを主張するためであろう。

以上の考察から『金剛経』では、自分だけを良しとする我相、他人との比較や分別し彼我の観念が対立している人相、自分の五蘊による貪瞋痴に惑わされる衆生相、妄りに寿命の長短をはかり自分の幸福利益だけを考える寿相の「四相」がある限り、菩薩にはなれないということが明確に強調され、自分の悟りだけを追求する阿羅漢ではなく自我がどこにも住する所のない菩薩行を重視している。

このように『金剛経』は現象として現れる色形あるものだけでなく心の中にある我執も否定することで、善悪どちらにも偏らない中道の精神についても言及している。執着心や分別心の否定とは、「何ものにもとらわれることがないままに、心が働いていること」(中村元『大乗仏教Ⅰ 初期の大乗経典』、東京書籍、昭和六十二年、七四頁参照。)であり、これは『金剛経』で説かれている「応に住する所無くして而も其の心を生ず」を意味している。

『金剛経』は先に引用したような布施行の実践を通して執着観念の否定を説明するなかで、初期仏教を「小乗」と否定せず、また「小乗」との対立を以て成立した他の大乗仏教の経典の立場も損なわずに、仏陀の教えが八万四千の法門があることが示唆できている。つまり初期仏教や大乗仏教の経典に見られる様々な教えを含めて、仏教はそれぞれ人にあった対機説法が可能であり、或る特定の一つの教えだけが絶対的もしくは優っているのということではないのである。「如来がこの上ない悟りを現に悟ったということがらは何もない」、「悟りに導かれても実は導かれていない」(『般若心経・金剛般若経』中村元・紀野一義訳注、岩波文庫ワイド版、一九九一年、五五~五七頁参照。)という『金剛経』のなかで述べられている一節は、悩みや迷いのない平安な境地に導かれることを願う大乗仏教とは一見違うようにも思えるが、仏陀が川を渡った後の筏は必要ないという事例を用いて、法にさえも執着してはならないことを戒めたように、一つの経典や経典に書かれた内容そのものにとらわれてはならないといった、釈尊が主張する執着観念の否定にも通じている。

『金剛経』のなかで、経典重視を示唆する内容に以下のようなものがある。
「経典の言葉が説かれるとき、それが真実たと思う人々が誰かいるに違いない。」(同書、五一頁)
「これから先、後の時世になって、第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、徳高く、戒律を守り、智慧深い求道者・すぐれた人々は、このような経典の言葉が説かれるとき、それは真実たと思うに違いない。」(同書、五一、五三頁)
「このような経典の言葉が説かれるとき、ひたすらに清らかな信仰を得るに違いないのだ。」(同書、五三頁)
「この経が説かれる地方は、神々と人間とアスラたちを含む世界が供養すべきこととなるだろう。」(同書、八九頁)。
 
経典崇拝としてとらえられるような上記の表現であっても、言葉の表面上には表れない何か違った意図を読み取ることが可能であり、ここに教外別伝、不立文字を標榜する禅宗の経典観を見出すことができる。