禅問答(公案)入門 「一得一失」

禅問答

1禅問答とは何か?

禅は頭で理解しようとすればするほど、逃げていきます。ヌルヌルのウナギを素手で捕まえようとしても、すぐに、ぬるっと滑って逃げてしまうようなものです。

禅は頭でロジカルに理解しようとすると、益々わからなくなってしまう特徴があります。ではなぜそのようになっているのでしょうか。それは禅問答を通じて、全く理解不能な難問にして私たちの固定概念を崩すためです。

禅問答は、頭で考えていてはだめだということを知らせるためにあります。
禅問答は、毎日の修行の成果を試す道具です。ですから、老師はいつも弟子を参禅させ、公案を出して弟子がどれだけ頭で禅を理解していないかを確認します。

公案は1500則あるとも言われています。すべての公案に正解する必要はありません。センスのある人は、竹に小石が「カチン」とあたった音だけで悟れますし(香厳智閑(きょうげんかんち)禅師)、難しい専門書をどんなに読んでもさっぱりわからない人(日本を代表する世界的な哲学者の西田幾多郎など)もいます。

そんな難しい禅問答であっても、視点を変えて理解してみると、凡人の私たちにも結構為になる教えがあります。
たとえば禅問答には、観察力、傾聴力、自己開示力、解決力、自己分析力といった、厳しい今の世の中を生き抜いてく為に必要な人間力を教えてくれる公案もあります。

そこで、これから禅問答(公案)入門シリーズとして、『無門関』や『碧巌録』などの禅書にみられる問答をいくつかみてみることにしましょう。

アニメの一休さんに出てくる、「什麼生」(そもさん)、「説破」(せっぱ)の世界です。
みなさんならこれから紹介する禅問答にどう答えますか。是非自分なりの答えを考えてみてください。

2 一得一失

法眼文益(八八五‐九五八)は法眼宗という禅の一派を立ち上げ、遷化後も皇帝から勅諡〈ちょくし〉を贈られるほどの名僧です。
今回は、そんな禅匠である法眼文益の禅問答「一得一失」を紹介します。

    或る日、法眼が部屋にいる時、無言で軒先にかかっている簾を指さしました。
    そこにいた二人の僧は、法眼が簾を巻き上げるように指示したと思い、すぐに簾を巻き上げました。
    そうすると法眼は、「一人はそれでよし、一人は駄目だ」と言いました。

    <原文>
    清涼(しょうりょう)大法眼、因(ちな)みに僧、斎前(さいぜん)に上参す。
    眼、手を以って簾を指す。
    時に二僧有り、同じく去って簾を巻く。眼曰く、「一得、一失」。(『無門関』第26則)

これこそまさに禅問答というぐらい、難しい問題ですね。
同じことをした二人なのに、なぜ一人はよくてもう一人は駄目なのでしょうか。
もしこの問答にそのような疑問を持ってしまったら、もはやあなたは禅問答のトラップにひっかかってしまっています。

3 禅問答の解釈

禅問答「一得一失」について解説する前に、そのヒントとなる「分別」という禅語を考えてみましょう。
禅は分別を嫌います。これはお釈迦様の中道の教えでもあります。
私たちが使う分別(ふんべつ)は、「分別がある人」というように「道理をよくわきまえること」という肯定的な意味で使います。
英語でも「分別」という言葉は、「discretion」(思慮深さ)、「good judgment」(良識)と訳されています。このように「分別」という言葉は、人間が常識的そして倫理的に行動するための判断基準として肯定的に使われています。
一方、禅の世界では「分別」を「ぶんべつ」と読み、良い意味では使いません。禅の教えでは、分別を「こだわり」や「選り好み」と考えます。そして分別さえしなければ、苦しみは起こらないと説きます。私たちが日常使う肯定的な意味とは正反対の意味なところも、また禅っぽいですよね。

なぜ分別は悪いと教えるのでしょうか?
分別とはどちらも「わける」ことです。良い・悪いと分(別)けると、対立関係が生まれ、喧嘩になります。対立を生むから分別は良く無いのです。

もう一つ例を挙げましょう。
「幸せ」と「不幸せ」と分けて、「幸せ」だけを手に入れることはできません。なぜ「幸せ」を感じるのかというと、それは幸せでない時があるからです。人生は必ず「幸せ」と「不幸」の二つでワンセットです。
「不幸」があるから「幸せ」があり、「不幸」は「幸せ」の必要条件なのです。

禅の「分別」の意味がわかると、法眼が言った「一人はよくて、もう一人は駄目」の意味が分かります。
きっと法眼はどちらか一方をいい・悪いと言っているのではなく、世の中は裏・表、良い・悪い、これらどちらが欠けても成り立たないことを、弟子たちに教えているのだと思います。
つまり、法眼の「一得一失」の指摘には、陰陽の互いの必要性が説かれているということです。
もしかすると、正しい答えは一人の僧侶は簾をあげずにそのままにしておけば、法眼禅師も満足だったのかもしれませんね。
しかし、これも頭で考えた後での答えなので、すでに分別しているので、老師から一喝を喰らうに違いありません。

4 『無門関』による解釈
『無門関』は無門慧開(1183~1260)が、禅の修行者が悟る指標となるために評唱・頌を付けて書いた公案集です。

無門は、法眼の「一得一失」の問答をこのように評して、いいました。

    評唱:
    且(しばら)く道(い)え、是れ誰か得、誰か失、若し者裏(しゃり)に向って一隻眼(いっせきげん)を著(つ)け得ば、便ち清涼(しょうりょう)国師敗闕(はいけつ)の処を知らん。
    かくの如くなりと雖然(いえど)も、切に忌む得失裏(とくしつり)に向って商量することを。

    (訳)
    さあ、どちらががよくて、どちらがは駄目か。
    もしこれがわかる眼を持っていれば、法眼がいかにが駄目な禅僧か分かるだろう。(←法眼への褒め言葉です)
    そうだととしても、どちらがよくて、どちらは駄目だなどと考えたりしたら、悟ることなどは到底できやしないぞ。

    頌:
    巻起(けんき)すれば明明として大空(たいくう)に徹す、大空すら猶お未だ吾宗に合(かな)わず。
    争(いか)でか似(し)かん空より都(すべ)て放下(ほうげ)して、綿綿密密、風を通ぜざらんには。

    (訳)
    簾を巻き上げれば明るい大空が目の前に広がる。
    それは禅の悟りの境地に似ているが、悟りの境地ははるかに超える境地である。
    そんな悟りの境地さえも投げ捨てて、風が通らないぐらいまで本当のの自分を極めなければならない。

無門は、「どちらがいい・悪いなどに囚われていたら、悟れないぞ」と私たち警鐘を鳴らしてくれていますね。
これは分別していては悟れないという意味です。

そして、最後に、無門は丁寧にこのように諭してくれています。

    分別してはいけないということがわかると悟ったように感じるが、本当の悟りはそんなものではない、その悟ったという思いすら捨て去ることで、初めて悟れるから、徹底的に自分と向き合って無になるように

廓然無聖の境地に至ったからといって悟りを開いたままでは、非現実の世界に留まってしまいます。悟りを開いた後は現実世界にしっかりと戻ってきて、悟りで得た智慧を実生活に活かさなければならないことを、更にご丁寧に伝えています。

本来、禅は「不立文字」「教外別伝」を掲げ、言葉では説明できないものが悟りと主張します。公案はまさにその訓練ですが、それと同時にこれだけ丁寧に禅を言葉で説明して解説してくれているところは、まさに仏教の慈悲に他なりません。